本堂の左側に7月24日に完成した永代供養塔。
永代供養塔は無縁仏とは違い墓のない仏を祀るためのものである。仏像は大きさは異なるが、奈良の大仏と同じ仏像が中央に座られています。

坂を上がると立派な本堂が見えてくる。

この石碑は明治の水害で洪水の水位を示している。
 1889(明治22)年8月の豪雨で岩田村(上富田町)では富田川と岡川が氾らんし、流域一帯が被害に遭い、死者が多数出た。この明治の水害を記録した三宝寺17代の大信住職による「大洪水現況実記訓戒」を基に、岩橋住職の父で2004年に96歳で亡くなった笑巖住職の遺志を継いで建立されたそうです。

旧311号沿いから見た三宝寺

坂の手前に新しい石碑がある。

◎ 明治二十二歳大洪水現況實記訓戒 (三宝寺十七世大信和尚の記録)

 8月18日の午後2時頃から降り出した雨は、19日の朝8時頃には風雨が一秒間も止まることなく降り、寺の前の岡川の水も一丈(約3メートル)余の水量になった。
 昼ごろには川筋の家が水漬けとなり、見る間に箪笥長持ちなど家具類が散乱して流れ出した。午後4時頃には、寺の前の大橋をはじめ、人家や納屋などがちりぢりになって流れ、そのうち5〜6軒の人家が水にとり巻かれて人々は助けを求めたが水勢が強く手の出しようがなかった。
 この夜8時頃から富田川が大水となり、堤防も決壊して岡川と富田川の水が混じり合い、大河となって流れた。立平の20軒が人とともに流れ、大坊でも20軒あまり上岩田と田熊では、それぞれ14〜5軒、三宝寺でも10軒あまりが流失した。
 翌20日富田川と岡川の水は5時頃から引きはじめたが、上岩田の堰から堤防5百間(約9百m)が切れたため、水の流れは上岩田の中地から大坊中道通りをとおって、三宝寺前に突き当たり、水勢は大海の大波のようであった。一日中家材、家具が材木とともに流れ、人や牛馬も流れていった。人々は、この自然の猛威をぼう然と眺めているのみであった。
 21日は水もかなり減ったので、早朝より溺死者の遺体を捜しに、兄弟、親類、知人など弁当持参で川伝いに富田浜あたりまで出かけていった。

明治洪水溺死群霊墓。
明治二十二年(1889)の大水害による岩田村内の溺死者、120余人の供養「群霊墓」を当時三宝寺住職大信和尚(十七世)篤翁大信、俗姓長尾)が同志と謀り、浄財で建碑を企画、翌二十三年八月、高さ二・六メートルの「明治洪水溺死群霊墓」碑が同寺境内に建立された。

三宝寺の半鐘。
本堂から見て左端に吊るされている。総高六七センチ、普通の和鐘タイプの半鐘であるが、草の間には各区に太い扇向唐草文が陽刻されているほか、中帯の上下に花菱文を配し、乳廊三方に雷文をおいている特色がある。
銘文は、池ノ間1−3区にわたって、製作目的・寺名・年記をそれぞれ刻んでいる。それら銘文から明治二十四年(1891)八月、当寺篤翁大信(17世)代に、施主小倉増右ヱ門が、先祖代々の菩提のために本鐘を寄進したことがわかる。町域に残る半鐘のうち、唯一の明治時代の製品である。

三宝寺
 三宝寺は岩田字大山前の、国道311号沿いにあり、山号を珊場山といい、曹洞宗の寺院である。

寛文六年(1666)の「寺院改」『宇井文書』には
曹洞禅宗 珊場山三宝寺 何代之建立トモ不相知、
代々禅宗之由申伝候、寺領無之寺内年貢地、
田地壱反飯料旦那中@耕作仕候

 と記されている。創建の年代や由緒等の詳しいことは不明であるが、『湯川記』『田上右京之進覚書』や寛正二年(1461)銘の一石五輪などから、天正以前より寺観が整っていたと推察することができる。(『上富田町史 史料編上 中世(室町)史料』参照)。
 境内は南面し、山丘を背に正面に本堂、向かって右側に庫裡があり、廊下でつながっている。
 本堂の左側には無縁塔の墓地があり、無縁墓地には地区内の集落に散在し忘れられていた石仏などを集めて祀られている。その中に前途の寛正二年(1461)銘の一石五輪塔をはじめ享保十四年(1729)銘のある地蔵(念仏講 中間九人)や当地方では珍しい丸彫の庚申塔が含まれている。土塀沿いには、元禄十三年(1700)銘の北向地蔵・徳本塔や明治洪水溺死群霊墓の石碑、句碑・近四国番外の御詠歌碑、忠霊塔などの石造物がある。

            参考資料「上富田町史 史料編下・二」より
Copyright (C) 2006 IwadaWaiwainet NameraZero All Rights Reserved
inserted by FC2 system